ウルトラマンに捧ぐ




・別にエンタメに限った話ではないですが、どんな作品であれ、作られた時代の価値観や風潮の影響を受けない作品はあり得ないと思います。『ウルトラマン』が作られた時代背景と、『シン・ウルトラマン』が制作されたバックボーンは違うのですから、後者は前者の焼き直しでは存在価値は無く、アップデートされてこそ生まれ出づる意味がある言えます。



・その点に置いて、『シン・ゴジラ』は正しくそういった観点から制作された作品だし、『シン・ウルトラマン』に置いても、開始のロゴからして制作者の十二分な自覚と覚悟が感じられます。



・『シン・ウルトラマン』を観て、単体でのみならず、出来れば原点の『ウルトラマン』や後のシリーズと比較した上で、「平和」や「正義」や「(地球のみならず)宇宙全体の秩序」と言った難解な概念の意味を考える壮大な話をするのは、とても有意義に思えますし、それを受け止めらるだけの器が『ウルトラマン』と「ウルトラシリーズ」にはあると言えます。



・ただ、時代を経ても支持を受け続ける作品には、時代が移ろい価値観や風潮が変わっても揺れ動かない「魂」と呼ぶべき核の中の核があり、その点から考えて、『ウルトラマン』という作品を突き詰めるだけ突き詰めた果てに現れる根源的な「魂」は、至極単純明快な「特撮という愛すべき嘘」の理想の一つの到達点なのだと思うのです。



・ウルトラマンは「遠い銀河の彼方M78星雲からやってきた正義の使者で、人間の力では敵わない怪獣や宇宙人から平和を守ってくれる大きくて強いわれらのヒーローそれでいいんです。



・そして、その「魂」が確固たるモノだからこそ、「故郷や地球」「怪獣墓場」、後の作品で言えば「超兵器R1号」「怪獣使いと少年」と言った、本来の流れとは違う、視聴者の抱く世界観や価値観を大きく揺さぶる内容をも内包するだけの器があるのだと思います。



・「正義のヒーロー」という核があるから変化球(主に実相寺)も出来るというよりは、逆に本質的に黒くて重いモノを「正義のヒーロー」という綺麗な化粧でパッケージしているという見方をする人もいるかもしれませんが、そういう価値観も内包出来るのが『ウルトラマン』という作品の器の凄さを逆説的に証明していると思います。



「ウルトラマンは万能の神ではない」「ウルトラマンも完璧ではない」とは初代から『シン・ウルトラマン』に致るまでずっと繰り返され続けて来た主張ですし、作品としての『ウルトラマン』も完璧とは言えず粗や不出来な部分があるのは否定出来ないと思います。



・でも、論理が破綻しているのを承知の上で言わせてもらうと、そんなウルトラマンと『ウルトラマン』は、私にとっては「万能かつ絶対的な存在」でありながら「完全完璧ではない」という矛盾が同居する事に何ら違和感が無い全宇宙に向けて「矛盾上等!」と胸を張って言える存在なのです。



・前述のトキワ荘レジェンド世代にとって手塚治虫の『新寶島』がそうであるように、あるいは江口寿史が『まんが道』を「信仰を持たない自分にとってある種の聖書」と呼ぶように、この歳にもなって延々とあれこれ考えて語っている私にとって、ウルトラマンと『ウルトラマン』は信仰と言えるのだと、不惑を前にして自覚する事が出来ました。



・そして、私に以外にもそう思っている人は居て、きっとこの先もそう思うようになる人が生まれ続け、ウルトラマンというヒーローと『ウルトラマン』という作品は、半世紀以上経っても変わらず、この先も永遠に、色褪せず輝き続ける「特撮ヒーローの金字塔」であり続けてくれるのだと、今回『シン・ウルトラマン』を観劇し、改めて『ウルトラマン』と「ウルトラシリーズ」を深く考えた結果、そう思うに至った次第です。

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